患者体験談

前略


この度の体験談はたにちゃんさんに執筆いただきました。たにちゃんさんの今までの人生にはIBD以外も多分に影響しているので、IBD以外も含めて執筆いただき、まさに、たにちゃんさんの「人生の体験談」になっています。


IBD以外の内容も含まれていますが、それも含め、たにちゃんさんの人生を感じ取っていただけますと幸いです。


ジーケアスタッフ


ーー自己紹介


22歳でクローン病を発症した島根県に住む30歳のたにちゃんと申します。


学生時代からストレスで腹痛など多かったですが…発症は22歳でした。


結婚離婚妊娠出産など経験しています。

クローン病の他に精神疾患や多汗症やてんかん、幼い時に大きな手術など経験しています。


最近、山陰若者IBD会を立ち上げました。

私のクローン病になってからの経験談が誰かの心に何かを与えれるものになればいいなと思います。


よろしくお願いします。


ーー学生時代


元々学校という集団の場所が苦手だった。

小学校も中学校も高校もいじめを受けた。

学校が嫌いで朝起きるとお腹痛くて学校へ行くのが嫌だった、そんな学生時代。


学校が好きな時期もあったし、楽しかった時期もあった。

でもそれよりも苦痛が大きかった。

学歴は高校中退の高卒認定を持っています。


子供の頃から身体は弱い方で、人一倍よく熱を出していたし、入院もしていた。

病院には子供の頃から掛かっていたので、夢は医療関係に就くことだった。

高校1年で精神科にお世話になり始めた時は、カウンセラーになりたかった。

そんな学生時代。


高校を中退後、民間資格の心理系の資格は4~5つ、取得しました。(結局何一つ役に立つことなく今に至ります。)


ーー病歴、手術歴


クローン病のことも含め30年間でのことを簡潔にまとめます。


⇒色素性母斑(生まれつき右耳が真っ黒)

皮膚がんになる恐れがあると言われて、

今クローン病でお世話になってる病院の

皮膚科にずっと掛かっていました。


手術は県外でと言われたけれど、4歳の

私を連れて県外は…と両親はすごく悩んだそうです。


そんな時、両親の職場の知り合いの方から

県内でもいい先生がいると教えて貰い

無事に5歳の時、脳の筋膜まで広がっていた大きな母斑を全て取る手術が出来ました。


⇒耳の再建術

手術をしてからトラウマになった私は耳の再建術をずっと拒み続け大人になりました。


24歳くらいの時に右耳に髪の毛が掛からないコンプレックスの解消のため、再建術をしてもらいます。でも、時間が経ちすぎていて術後も右耳に髪の毛は掛からないまま。


ですが、当時執刀医だった先生は話が通じ、当時を懐かしく感じてもらい、当時助手で手術に入ってくれた先生に「やってみてあげてくれ。」と言ってくれました。


また、約20年の時を経て病院に行った時、「僕のこと覚えてる?あの時一緒に手術したんだよ!」と覚えてくださってた事がとても嬉しかったです。


⇒多汗症(治療、手術歴あり)

小学一年生で四肢末端多汗症と言われ、ずっと悩んできました。今も変わらず悩むことは多いですが…。


中学3年からクローン病と同じ病院の皮膚科に掛かりだし、塩水に電気を流して行う治療をずっとやって来ました。


それも効果が見られず、高校1年の夏休みに県外の多汗症専門外来で副交感神経をクリップで止める手術を行いました。


手術の代償は首から下の体中の汗が酷くなるという、代償性発汗。


でも手の汗がそれで止まるならと、手術を行いました。高校1年の時のクラスメイトにはすごく支えられ…入院の日にクラスメイトの友達からたくさん「手術頑張れよ!」とメールが届いたことは今でも忘れれない思い出です。


代償性発汗は年がら年中、汗が止まりません。着る服も履く靴も考えないといけません。素足になることは出来ません。

真冬でも少し歩けば背中から滝汗状態です。


そんな中、高校中退になったいじめのストレスからか、クリッピング術をして約2年半…

クリップが外れ、手の汗も元通りになりました。代償性発汗は無くなりません。


なので今は元の量の2倍近く発汗があります。好きなことをする時は手袋をつけて作業しています。


クリップが外れた後にボトックス注射も経験しましたが…高額な金額の割に私にはあまり効かず、1度で終わりました。


今は少しづつ多汗症の自分とも向き合っています。


⇒てんかん

19歳の春、車の免許を取りたての頃、運転が好きで県外へ遊びに行った際、発症。


ゲームセンターのエスカレーターを降りている途中から記憶がなく、気付いたら意識を失い痙攣しフロアに倒れていて救急隊員が起こしてくれました。


そのまま県外の病院へ搬送され、検査をしてから紹介状を持ち帰宅しました。


「てんかん発作」だろうと診断されその日からてんかん薬の服用、2年間の運転禁止が言われました。


1度のみの発作で今は薬も飲まないで生活出来てますが、本当に自分はてんかんなのか?と静岡県までセカンドオピニオンを受けに行ったこともあります。


結局本当にてんかんなのかは不明なままですが、今でも注意していることは寝不足で運転はしないこと。何かあったら運転を変わってもらえるように車の保険は誰でも運転出来る内容にしています。


2年間の運転禁止だったため、免許証は失効し、2回初心者マークを経験しています。毎年運転適正相談を提出していましたが、去年、それも終了しました。


⇒クローン病と精神疾患

これは後々話していきます。


ーー1度目の結婚そしてクローン病、離婚


私は父を20歳になる2ヶ月前にクモ膜下出血と脳動脈瘤破裂で亡くしています。


本当に急なことでした。辛い日々が続きました。その二年後、一緒に暮らしていた祖父も誤嚥性肺炎で他界。

一気に大切な人を2人失いました。


20歳を過ぎてから私の周りは結婚妊娠出産の第一ラッシュに入りました。

当時私も長年お付き合いしていた方が居たので、自然と結婚しました。それが1度目の結婚です。22歳の春でした。


その秋に…腹痛、毎日10回以上の下痢、体重減少、高熱を繰り返すように…。毎週それを繰り返すようになり、かかりつけのクリニックでずっと経過観察をしてもらってました。


口の中に10個近く口内炎も出来て耳鼻科へ通い、お尻が痛くて肛門科へも行きました。


が、治らないこの辛さにクリニックの先生から地元の大きな病院へCTを撮りに行ってきてと言われ、その結果、突然「腸のリンパが腫れている…」と言われました。


私は正直、悪い病気なんじゃないかと不安が募りました。


当時、そのクリニック以外で掛かっていたのが隣街の大きな病院の婦人科でした。なのでクリニックの先生が婦人科の主治医へ手紙を書き、CTの結果を一緒に持って婦人科の主治医の元へ行きました。


婦人科主治医はそれを見て「クローン病が濃厚かな?」と言ってくれました。

すぐに消化器内科の先生を手配すると言ってくれて、すぐ診てもらえることが出来ました。


高校2年の時に1度虫垂炎の疑いでその病院に入院していた時のCT画像などを消化器内科の先生が見つけてくれて、

「1度虫垂炎で入院したことあるでしょ?その時のCTにもクローン病の影が見える。きっとその頃は発症まで至らなかったんだと思うけど、ここの病院はクローン病に特化してなくて…大学病院にクローン病の研究チームがあっていい先生がいるから紹介状すぐ書くね。」と言ってくれました。


そして、「今日から大学病院までの間は何も食べないで欲しい。エレンタールという栄養剤を出すからそれを飲んで欲しい。」と。


頭の中で「クローン病ってなに!?」「どうなるの?!」と不安しかありませんでした。


拒食症を経験していた私はガリガリに痩せていたのが精神薬で拒食症が治り、その副作用で過食になり体重がかなり増加していたので、体重減少と言っても元の体重に戻った程度だったのを覚えています。


そして、エレンタールの味の不味さに嗚咽が止まらなく「エレンタール大嫌い、こんなの飲めない。」と泣き叫んだ記憶もあります。


そして、大学病院の受診日、母と共に行きました。そこですぐに今の主治医である先生に「これはほぼクローン病で間違いないけど、診断を付け、治療を決めるために検査入院しましょう」と言われました。


その日に入院になり、採血やレントゲン、CT、MRI、便検査、口からのダブルバルーン内視鏡、お尻からのダブルバルーン内視鏡、いろんな検査を徹底的にしました。


入院中はクローン病食が出てきました。初めて見るご飯たち。でも不思議ととても美味しいと感じました。


当時、入院担当医だった先生にはすごくわがままも言いました。不安が強く個室へ移動もしました。母も付き添いで毎晩泊まってくれました。


検査が一通り終わり、主治医がもう1人先生を連れて「結果説明と今後のことについて話しましょう」と言いました。


もう1人の先生は、クローン病を患いながら主治医の患者であり、主治医と同様IBD専門の先生でした。


結果は「クローン病の大腸小腸型です。」でした。そして続けて主治医はこう言いました。


「この病気は生涯付き合っていかなければいけない国が指定している特定疾患という難病です。死に直結するものでは無いけど、ずっとこの先、向き合っていかないといけない。治療をしていかないといけない。この隣にいる先生もクローン病です。私たち2人とこれからしっかり信頼関係を築いていきましょう。それから今はお酒もタバコも妊娠もダメです。あと、肛門病変があるので、痔瘻になったりしないよう注意しておこうね。」と。


「早速明日から治療を開始しましょう。最初はペンタサという飲み薬から試してみましょう。もし使えないようならヒュミラかレミケードをしましょう。」と。


考えがまとまらず頭の中は真っ白でした。その反面、やっと治療が出来る、診断がついた。という気持ちにもなりました。


入院担当医の先生が「元々精神科にも掛かってたみたいだから、精神科、ここの病院の先生にこれから診てもらえるようにしようね。」と入院中から精神科は大学病院に移りました。


私は症状が出始めたのは9月辺りで診断に至ったのが12月の頭でした。比較的すぐに診断が付いた方だと思います。

でも、症状が出始めた頃のしんどさは今でも鮮明に覚えています。


最初に行ったペンタサの治療は肝機能が悪くなり数日で中止に…すぐにヒュミラが開始されました。副作用などは出ず、効いている感覚もあり、すぐ通院に切り替えるため退院が出来ました。


約1ヶ月半の検査入院でしたが、今でも忘れれないのはちっとも当時の旦那がお見舞いに来なかったことです。


来てくれることもありましたが、義理両親や義理兄弟や共通の友人メンバーがお見舞いに来てくれるのに付き合って来るぐらいでした。1人で来てくれることもありましたが、来ても機嫌が悪くすぐ帰るような感じでした。


「なんで来てくれないの?」と聞いたこともありましたが、「行くのが疲れる。仕事終わりに行けない。休みの日は休みたい。たまに行ってるんだからいいじゃん。そんなに行かないといけないの?」でした。


冷めきった夫婦だったのかな?と今では思います。

そして、翌年の秋、色んな思いの中、「自分がクローン病を受け止めきれてない、理解出来てない以上、相手に求めるのはしんどい。」と思い離婚しました。


ーー仕事


アルバイトやパートの経験はあります。が、正社員として働いたことはありません。


学生時代からの対人への恐怖や視線恐怖などが強く、働けてもアルバイトなどが精一杯でした。それはクローン病になってからも変わらず。


面接の度にクローン病を言うべきか言わないべきかとても迷ったことがたくさんあります。


病気があるという理由で面接を落とされたことも辞退したこともたくさんあります。

そして、受かっても続けれないくらいのストレスと不安などが容赦なくお腹に来てしまい、体調を崩すことが多く…いつも殻に篭っていました。正直引きこもりでした。


何社かアルバイトの面接時にきちんと「クローン病と精神疾患があります。」と話した時に受け入れてくれた職場もありました。


「あなたのペースで無理なくやって行ってね。何かあったら話してね。抱えすぎて自分がダメになるのは良くないからね。」と面接時に誕生日だった私の初出勤の日にプレゼントを用意して温かく迎え入れてくれた職場もありました。


長くは続けれなかったですが、どうしたらいいか悩んでた時に巡り合えたあの職場には感謝しています。


そして、それから数ヶ月して、新しくオープンする全国チェーンのお店の新規スタッフ募集に応募し、面接時に病気のことも全て話、採用して貰えた場所がありました。


その頃、クローン病より精神面の方がしんどい時期で「心理テスト検査」を受ける予定でいました。オープニングスタッフとして研修から始めた私は、壁にぶつかりました。


「みんなが出来ていることが出来ない…言われてる意味が理解できない…なんで?」

1人取り残されていく気分でした。このまま仕事が出来るのか?という不安しかなく、次第に「これってどうやるんだっけ?」など出来なくなっていく事が多くなってきました。


「心理テスト検査」の結果…今まで分からなかった私の精神疾患の方の診断もいろいろ付きました。


その中の1つに「発達障害、軽度知的障害」もありました。出来ない事が突発的に出てるのはきっとこれが原因だろうと先生から言われ、悩みました。このまま今研修してる職場で頑張れるのか…。


その事を伝えるためマネージャーに電話で全てを話しました。悔しくて泣いてしまいながらも話しているとマネージャーは「僕はそんなあなたでもいい。面接時にいろいろ話してくれたあなたの想いや熱意で僕はあなたを採用した。誰でも良くて採用した訳じゃないからね。ゆっくり考えて答えを出してくれていいよ。」と。


そんな風に言ってくれる人もいるんだ。と、余計に泣いてしまったのをよく覚えています。

結局、自分の弱さに負け研修中にその職場は去りました。


それからはまた殻に籠る毎日が続き、色んなことを経て今に至ります。

今は家でも出来る在宅ワークをいろいろ探し少しずつ家でスキマ時間に出来る事をしています。


私はトイレにウォシュレットがないとしんどいです。

ウォシュレットが整っていない環境がまだまだ多い中、外に働きに出る勇気がなく、大きな一歩は踏み出せてないですが、ゆっくりゆっくり自分で出来ることを見つけ仕事としてやって行ってる現状です。


ーー2度目の結婚、不妊治療、妊娠出産、離婚


1度目の離婚後の数年後、私は再婚しました。


次こそ上手く行くように。私はそう思ってた。


そして、周りからの「たにちゃんはいつ子供産むの?」「すぐ出来るって~」「次の子と同級生にしよー!」など、何気ない友人からの発言に心に強いプレッシャーを受けていました。


1度目の結婚の時も、2度目の結婚の時も「子供出来たの?」「え?じゃ、なんで結婚したの?」なんて言われる始末。

すごく嫌な気持ちになったのを覚えています。


そんな中、肛門病変で覚悟していた痔瘻になりました。私は4度のシートン術をそれからしています。座れなくなり病院に行きそのまま手術になることが多く、今では「これ、緊急手術かも。」と思うことも出来るようになってきました。


1度目の痔瘻になってシートン術をした時に、ヒュミラからレミケードに治療も変更しました。


そのおかげか、体調面が良くなっていき、妊活に踏み切ろうと思いました。


まず、婦人科の主治医に話して、クローン病主治医と精神科主治医に手紙を書いてもらいました。両方の主治医に許可を得て、不妊治療が始まりました。


不妊治療をするにあたり、卵管造影の検査などもしました。


結果、私は排卵が上手くできない無排卵月経が多かったので、排卵するための薬を使っていました。


私の母も不妊症で私を授かったのは諦めかけていた時だったと言います。


不妊治療に通っていたことも知ってる友達は多かった。でも、「すぐ出来るよ~」なんて今思うと励ましのつもりで言ってくれてた発言かもしれないけど、私にとってその時はプレッシャーと心に突き刺さる鋭い物にも感じていました。


周りはどんどん妊娠していく。その現実もプレッシャーでした。


そんな中、今では家族同然の付き合いをしている友人が妊娠していました。

「たにちゃん、不妊治療頑張ってて、妊娠している私と一緒にいるの辛くない?大丈夫?」と一言。

そんな言葉を掛けてくれた友人は初めてでした。


プレッシャーや嫌な気持ちや羨ましい気持ちになったことは勿論たくさんあります。

でも、だからと言って友達を嫌いになったりなんてなかった。妊娠や出産、子育てに付いての知識だけは増えていく、いつかのために勉強させてもらってる。

そう思うようにしていました。


不妊治療を初めて半年とちょっと…お腹に新しい命が宿りました。

「今月は排卵しそうにないね。」と不妊治療の先生に言われていた月でした。


私の中では嬉しい気持ちの反面、不妊治療の日々や、周りからのプレッシャーが一気に解放されたような感覚でした。


妊娠中はクローン病もかなり落ち着き、焼肉を食べようが全く動じないくらい自分の中で絶好調でした。


妊婦さんによくある便秘も、クローン病のおかげか毎日快便(軟便~下痢は変わらずでしたが。)で便秘に悩むことなんてなかったです。


そのくらい調子の良い10ヶ月を過ごし、自然分娩にて男の子を出産。

レミケードは妊娠30週で打ち切り、出産後に再開予定でした。


レミケードを打ってたため、出産後の子供への生ワクチン摂取は生後半年を過ぎてから。と言われ、ロタワクチンは出来ませんでしたが、それ以外は接種でき、念のためBCGを生後7ヶ月辺りまで延期しました。


産後に、精神疾患の方が悪化を始め、産後うつ状態が酷くなり…息子を見ることすら笑うことすら出来ない状態になりました。


レミケードの再開予定も私自身が「風疹のワクチンを自分が打ってから再開したい。」という希望を聞いてもらい経過観察していました。


きっとワクチン接種を諦めてレミケードをすぐ開始していたら違ったのかもしれませんが、みるみる再燃していき、自分でも味わったことない痛みに悶絶することに。

結果ワクチン接種は諦め、すぐレミケードを再開しましたが…


2ヶ月に1度のレミケードじゃ効かない身体になってしまっていました。


動けない痛みと食べれない痛みに苦しみ…精神疾患の悪化とのダブルパンチで息子は生後57日で保育園へ入所。


そんな小さなうちから保育園なんて可哀想。などと批判の声もありました。

でも、もしそうしてなかったら今の私と息子の関係性はどうなってたかわかりません。


あの時、私の状態を見てすぐに保育園へ申請をしようと動いてくれた当時担当だった保健師さんには感謝しかありません。

保育園に入所が決まり、私も静養と通院に明け暮れ…自分の母親に任せ切りになってた事は今でも反省点です。


レミケードが2ヶ月に1回の間隔のまま、後半1ヶ月はレミケード切れの痛みとなにも食べれないストレスを何ヶ月も繰り返し、子供の夏風邪と言われるヘルパンギーナに感染し、4ヶ月苦しみ、4ヶ月レミケードがまた打てない日々も経験し、入院もし、その上、出産後の一時的な甲状腺亢進症も発症し、このままだと自分も家庭も壊れる…そう思うほど恐怖でした。


そんな中、出産して味覚が変わったのか、エレンタールがフレーバーなしで美味しい…!!!という味覚変化が!!

フレーバー入れると逆に飲めないため、しばらくはエレンタール生活(フレーバーなし)をしていた時期もありました。


頼るべきはずである旦那には頼れることもなく、夜間救急外来へ行くのも頭を下げ連れて行ってもらうことに。それでも自分がその気がないと動こうともしてくれなかった。


色んな価値観の違いや考え方の違い、金銭面の事など…いろいろなストレスが重なり、将来について不安しか見えなかった。

そんなことが重なり続け、私は「離婚」という決断に至りました。


「離婚」を選択後、新たな人生を歩き出した私は少しづつストレスから解放され、1度だけCRPが正常値内だったことがありました。


主治医にも喜ばれ「ストレスが相当溜まってたんじゃないか?」と言われました。

その頃から月に1度のレミケード投与が私の病院でも認められ、月に1度の投与に変更になりました。


ーー現在


今は3歳(今年度4歳)になる息子は私の身体を心配してくれる優しい男の子に育ちました。


レミケードの日は必ず点滴や採血のシールを剥がしてくれます。


体調が悪い時は顔見に来て、よしよしと頭を撫でてくれます。


まだまだ母親として完璧ではありませんが、いろんな経験をして今の自分がいること、息子がいること、家族がいること、友達がいること、そして、育ての親として今はパートナーが居ます。


息子にとって笑顔が溢れているパパがいてママがいておばあちゃんがいて、そんな空間が1番幸せだと感じています。


現在はレミケードを1ヶ月1回の倍増で投与しています。

精神科も変わらず定期的に行き、薬もきちんと使用しています。

婦人科や耳鼻科、カウンセリング、訪問看護などいろんなところにお世話になりながら体調のコントロール、気持ちのコントロールを自分なりにやっています。


逃げてばかりの人生でした。

諦めてばかりの人生でした。

病気を理由に殻に籠る人生でした。


でも、出産して、前から使っていたSNSを

クローン病アカウントとして使いだし、

今は県内にも全国にもたくさんのIBD仲間さんが出来ました。

そのキッカケがなかったら私は今も殻に籠る人生を送っていたかもしれません。

病気に対しては昔から身体が弱かったのでいつでも誰にでもオープンに話します。


病気がある、でもそれが私だから。


そのままの私を知っていて欲しい、隠すことはしたくない。

昔からその気持ちは変わりません。

ありのままの私を知って欲しい。その上で仲良くしてくれている友達たちには感謝しきれません。


ーー山陰若者IBD会


私が描いていた昔からの夢を少し形は違うけど、叶えました。


山陰若者IBD会です。


山陰両県の若者世代での集まりが作れたらという思いから、私が初めて県内でのIBD仲間として知り合った友達に声を掛け2人で立ち上げました。


誰もが居やすく居心地がいい居場所作り、なんでも話せるそんな空間作りがしたいと思っています。今はまだLINEグループとブログしか立ち上げていませんが…SNSを通して加わってくれた仲間たちとゆるゆると話したりしています!


友達には話せないIBDならではの悩みや相談、それ以外にも他愛のない話など気軽に出来るそんな場所を作りたいです。


私が1人でクローン病だと殻に籠っていた数年間の気持ちや思いが今、少しずつ形になりつつあります。


その思いや気持ちや夢を大きくさせてくれたのはSNSで知り合ったIBD仲間さんたちの活動力や行動力…みんなキラキラ輝いてるそんな姿に魅力されたことも大きいです。


まだまだ立ち上げて始動し始めて間もない活動ですが、今後少しづつ大きくなって行けたらいいなとゆっくりゆっくり体調と相談しつつ進めていこうと思っています。


ーー最後に


めちゃくちゃ長くなりました(笑)

本当にここまで目を通して頂きありがとうございます。


誰が読んでも、こんな体験談載せていいの?……ってなってしまう申し訳ない文章だと思います。


いい事ばかりでは決してなかったし、これでよかったのか?と悩むこともたくさんある日々ですが、積み重ねてきた日々は私の経験値です。

良いことも悪いことも全てこれからの経験値として成長していきたいなと思っております。


ジーケアさんの体験談記事を書かない?と推薦をして頂いたお友達にはこういう機会を与えて頂いたことに感謝しております。

ジーケアさんもありがとうございました。


誰かの心に何か響くものがあると嬉しいです。


ありがとうございました。


たにちゃん

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