患者体験談

初めまして。IBDのクローン病との付き合い&寛解歴15年、趣味はアニメやゲームや漫画が好きな、北の大地在住のオタク専業主婦たま(29歳)と申します。
とても頼りになり、精神的・肉体的にも健康な32歳の夫と、もうすぐ4歳になる元気いっぱい年少さんの娘と、腕白で食欲旺盛な2歳の息子、二人の子どもと夫と私の四人家族との毎日を、騒がしくも幸せに過ごしております。
この度はお声を掛けて頂き、私の体験がIBDで悩んでいる患者様御本人や、支えている周りの方の参考に少しでもなればと思い、拙いながらも執筆をさせて頂きました。
IBDでも、自分に合った治療法と、周りの理解があれば普通の人と同じように生活出来るよ!
病気であろうと、良い縁があれば結婚も、出産だって出来たよ!
という私の実体験をお読み頂き、未来に対する不安を少しでも無くせれば幸いです。(※あくまで私個人の体験です。)
ーー発症~高校卒業
初めは、高校生活にも大分慣れ、長かった冬休みも終わった16歳の1月の終わり頃でした。
38度を越える高熱が、本当に突然一週間以上続きました。
何を食べても飲んでもお腹を下してしまい、ベッドとトイレの往復をする毎日が続き、いよいよこれはおかしいと実母と地元の内科の病院を受診したところ、即日入院する事になりました。
これが人生初の入院体験でした。
小学校高学年の頃から思春期だったり、周りとの付き合いからくるストレスもあってか、お腹は少し弱かったものの、産まれた時から病気とは全くの無縁で、性格も良く言えば真面目で おおらか、運動も大好きで、YOSAKOIソーランのチームにも所属していました。
(高校受験の為に中三の夏で辞めましたが、今でも大好きです。)
そして、食べる事はもっと大好きだった私は、当時も家族方針でもあった
『具合が悪いなら、栄養のある物を沢山食べて治す!』
という感じで、から揚げや焼き肉やカレー等を食べて治そうとして、余計にお腹を下してしまっていました。
(今では実母ともたまに話す笑い話ですが、IBD的に最も気をつけなければいけない食生活で、自ら病状を悪化させてしまっていますね笑)
初めての入院生活中、体調は依然として悪いものの、四人部屋の同室だったおばあちゃん達や看護師さん達は皆優しく
(若い人が私だけだったので、皆さん孫や娘のように可愛がってくれました。)
学校から出る宿題はあるけれど、面倒な学業はサボれてちょっとラッキー☆なんて気楽に考えていられたのは最初の三日間位迄で、一週間経つ頃には家族に会いたい、家に帰りたいとホームシックになっていました。
この病院では1ヶ月程入院し、血液検査やバリウム下剤を飲んでのCT検査やお尻からの胃カメラ(最初は鼻からの予定でしたが私の鼻の穴が小さい?か何かで無理だった為、お尻からになりました。鼻から出来た方はラッキーです笑
等々、様々な検査を受けましたが原因は判らず、強いて言えば胃がかなり炎症しているので、食べ物を制限して様子をみようという事になりました。
(食事療法を早くから行えたのは、とても幸いだったと思います。)
体調が少し良くなればお粥の量を増やし、悪くなれば汁だけと手探りの毎日でした。
流石にお粥と水だけでは栄養不足で体重がみるみると減っていく為に、両の腕ではなく、左側の鎖骨の上の所から針を入れ、毎日高カロリーの点滴をして栄養を摂取する事にもなりました。
この時の点滴後の傷は今でも残っていて、触れば少しぼこぼこしていますし、夏場等に露出が高い格好をすれば当然見えてしまうのですが、私はこの傷は一番辛かった時期を乗り越えた名誉の勲章だと思い、一切隠さず、また気にしないで生活しています。
周りの人にも何か言われた事はありませんが、もし言われたとしても全く気にしないで、昔頑張った証だと伝える事が出来る自信があります。
前撮りや結婚式の時にウェディングドレスを着た時も、着たいと思った肩出しのドレスを堂々と着て、とても満足のいく素晴らしい式と、写真を撮る事が出来ました。
今の時代なら、化粧やシール等で隠す技術も高いです。なので、これを読んでくださった方は、未来を諦めないで、幸せな結婚式を開いてほしいと願っています。
話が逸れましたが、この時の担当医だった若い先生は、色々と親身になって一緒に真剣に考えて、色んな可能性を示したり、病名を調べて私が納得し了承した上で治療法を試しても下さり、今でも初めて診てくれたのがこの先生で良かったなぁと本当に感謝しています。
食事制限のお陰か少しだけ体調は良くなりましたが、依然として病名は解らず、毎日の時間が過ぎるのが遅く感じるようになってきた入院生活が1ヶ月を過ぎ、とうとう先生と辿り着いた可能性が
『もしかしたら、これはIBDかもしれない』
という、未だ未確定ながらも、病状が一番似ているという漸く見えた一筋の希望でした。
この可能性に辿り着く前日に、まさに運命的と言えるのか、たまたまテレビを観ていた時にクローン病の特集をやっていたので、私も直感的に
「あ、私の病気はコレだな。」
と、事前に病名を知り受け入れる事が出来ていたお陰で、国が指定している難病だと伝えられても、勿論ショックではありましたが、抵抗はそこまでではありませんでした。
(この時はまだ未確定ですが。)
先生は
「正直僕ではもう出来る事が少ないから、S市のK病院に居るこの病気を専門で研究をしている先生に連絡してみようと思う。
向こうの病室に空きが有れば直ぐ入院も出来るように僕からの紹介状を渡すから、返事が着たらお母さんと行って、きちんと診断してもらおう。
地元から離れてしまうし、遠くなってしまうから お母さんやご家族の方にもご負担と不安な思いをさせてしまって申し訳ありませんが、たまさんの体調が一日でも早く良くなりますように、僕に出来る限りの最後の仕事をさせて下さい。」
この言葉は要約ですが、今でも忘れられない大切な言葉です。
こうして私は1ヶ月間お世話になった地元の病院を三日後に退院して、S市のK病院へと実母の車で他愛の無い話をしながら向かいました。(幸いな事に、連絡して直ぐ部屋が空いたんだとか。)
紹介され、初めて訪れたK病院は地元の病院の倍の敷地はあり、とても綺麗で大きな総合病院でした。その中で沢山の人が、それぞれの科で病や怪我を治そうと順番待ちをしていました。
私は先ず消化器内科の受付へと向かい、初診である事と紹介状がある事を伝えると、順番に番号が表示されるので待合のソファーでお待ち下さいと言われました。順番がきて、そうしてとうとう出会ったのが現在も私の主治医をして下さっているM先生でした。
M先生への第一印象は、一見とても穏やかそうなのに、とてもパワーと貫禄のある方だなぁと思った事を今でもハッキリと覚えています。(スラ○ダンクの安西先生のような。)
これまでの簡単な経緯を話し、触診をして下さった先生が
「まだ検査もしてないから確信とは言えないけれど、今診た限りだとやはりIBDの確率はかなり高いと思います。」
と、ハッキリと伝えて下さいました。
そして当事者の私より不安になり、泣いてしまった実母に対し
「たまさんからは『絶対治す!』という強い前向きな気持ちを僕は感じる。
それなのに母親であるお母さんが不安で弱気になっていてはいけない!
皆で笑顔になれるように、一緒に頑張りましょう!」
……という褐を入れて、泣いていた母を励まして下さり、前向きにしてくださった事は私の
『絶対良くなって、また学校に行く!』
という胸に抱いていた意思を、改めて固めるキッカケにもなりました。
若さからくるパワーと言うべきなのか、当時の私は国が指定した難病だと聞いてもさほど深刻には考えておらず、一番に思ったのは
『他の家族(両親、今は亡き祖母、弟と妹)ではなく、病気になったのが私で良かった』
という想いと
『この大きな病院と、頼りになりそうな先生が居るなら大丈夫!絶対治す!』
という、本当に今思えばその自信はなんなんだって言う位、謎の自信が有ったので、ここの入院生活を前向きに頑張ろうと思えたのは良かったと思います。笑
M先生との初対面と触診が終わり、いよいよ入院の準備をする為の部屋を看護師さんに用意して頂いていたのですが、先ずは最初の一日だけ四人部屋で、次の日からは諸々の検査(ほぼ前の病院と同じ事をしました。)が終わる迄は個室に移動し(個人的には、寂しがり屋なのでこの個室生活中が一番辛かったです。)、また同じ四人部屋に戻りと、最初の二週間位は結構ドタバタと忙しなかったです。
また、その間にも体調はどんどん悪くなっていき、とうとう下血の症状が始まったのもこの頃からでした。
炎症値(CRP)も日に日に上がり、一日中お腹が痛くて眠れなくなり、夜は夜勤の看護師さんに申し訳ないと思いながらも、痛み止めの注射を三時間毎に打ってもらわないと眠れない毎日が続きました。
そうしてとうとう付いた診断名が『小腸型のクローン病』。
まだ孔は空いてはいないけれど、ポリープだらけで炎症まみれの胃と小腸の写真を見ながら、M先生からの治療提案は
「炎症は進んでいるけれど、まだ手術しなくて何とか間に合う段階です。
前の病院の先生が、早く僕の所に紹介してくれたから早期診断する事が出来て助かりました。
それでね、僕からの提案はレミケードっていう、元はリウマチ患者さんに使用していて、近年IBDにも治療利用出来るようになった免疫抑制剤の薬なんだ。
とても高額な薬だけど、クローン病の診断が付いたから特定疾患の対象になって、金額はかなり免除される。
効果があるかは実際に使用してみないと判らないし、効いたとしても、これからずっと八週間毎に継続的に使用していかないとならない。
それでも僕はこの薬の絶大な効果を期待したいし、これから先の同じクローン病の方の為にも、たまさんのデータを研究の参考にさせてほしいんだ。
お母さんには先にお金の面とかの話はしてあって、あとはたまさん本人の同意だけになっています。
どうかな?」
という感じで、当時高校生の私でも解るように説明して下さり、私の同意が得られた翌日からレミケードの治療が始まりました。
……金銭面や特定疾患の手続き等の大変な事は正直全て両親任せで、私には病と向き合う事以外は何も出来ませんでしたが、今は少しずつ恩返しをして、一緒に住んではいなくても、両親を大切にしているつもりです。
そうして治療を始めた次の日には痛みが一気に引き、痛み止めの注射が無くても眠れるようになりました。
更に一週間後には症状は劇的に良くなり、CRPも下がってきたからと二週間過ぎた辺りから少しずつ食べる量や物を増やしていき、食べたとしても十倍粥や水で ほぼ絶食だった私が久しぶりに食べた普通の食事は、涙が出る程に美味しかったです。
また、併せてエレンタールを処方されたのもこの頃からで、私は冷たい水+青リンゴ味とパイナップル味とトマト味とヨーグルト味のフレーバーがあれば結構好きな飲み物として飲めたので、毎日二本~三本美味しく飲んでました。笑
このように順調に回復してきたと思って安心して二回目のレミケードを打った矢先に、トイレ中に目眩と大量の下血が起こり、意識を失う直前に何とか緊急ボタンを押した私は、気がつくとベッドの上で寝ていて、輸血を三本分点滴していました。
(直ぐに実母がお見舞いに来てくれて、お互い泣きながら抱き締め合いました。人生で一番死ぬ!って恐怖したのが後にも先にもこの時だけでした。)
先生曰く、いきなり食べる量が増えすぎてダム決壊のような事が起きたようで、劇的に良くなったと思ってお互いに焦りすぎたね、ごめんねと謝罪され、落ち着く迄はまた暫くお粥生活でしたが、その後は何も起きず、食事もまたCD普通食に戻り、無事に過ごせました。
先生から落ちた体力を戻そうね、と言われ、院内散歩を日課にし始めたのもこの頃からでした。
この時期に一度だけ高校の担任の先生が、実母から病状が良くなってきたと連絡を受けたからとお見舞いに来てくれました。
(K病院は学校から向かうと車で四時間は掛かる本当に遠い場所だったので、貴重な休日を利用してお見舞いに来てくれて嬉しかったです。先生は新婚さんでしたし笑)
「もう少しで学年が二年生に替わってしまうし、クラスメートも新しくなるから周りに知らない生徒だらけで不安になるだろうけど、たまの担任はこれから二年と三年も替わらず俺がなるからな。
それに、たまと同じクローン病という病の生徒が、実は他のクラスに一人居てな?
だから学校としての受け入れ準備は整ってるし、配慮はちゃんと出来るから、授業中に体調が悪くなったら無理せずトイレに行ったり、保健室でちゃんと休んで大丈夫だからな?」
と、学校生活に戻ってからの生活の配慮と、病気を理解し気遣ってくださる先生と学校に通う事が出来て、本当に良かったです。
そうして更に1ヶ月が過ぎて、CRPが遂に0.3まで落ち着き、もう一度胃カメラでレントゲンを撮り、見せて頂いた写真の胃がほぼほぼ炎症しておらず、綺麗になっていたので退院しても大丈夫だろうと先生から許可が下りた時は
「ああ、私は乗り越える事が出来たんだ。
また家族の待つ家に帰れるんだ。
学校に行って、友達とも遊べるんだ!」
と、涙を流しながらM先生と、ずっと親身に看病してくれていた担当の看護師さんにお礼を何度も伝えました。
時間にすれば、前の病院含めたった五ヶ月間という長くも短くもない入院生活でしたが、間違いなく私の人生が変わった五ヶ月間でした。
早くに専門の先生を知る先生に出会い、家族が精一杯支えてくれて、手術をする事なく、レミケードが身体に合ったからこそ実現出来た奇跡だなぁと、今でも思っています。
(実は退院してから初めて通院してレミケードをした翌日の夜の入浴中に、アレルギーのように全身が赤くなり呼吸が辛くなる事が一度だけありました。
その時は夜間の緊急に直ぐ駆け込み、点滴をして頂いたので直ぐに治まりましたが、それ以来点滴を行う前にアレルギーが出ないように予防の注射をしています。おかげで現在に至るまで、アレルギー症状は出ていません。
副作用の筋肉痛と怠さはありますが。笑)
退院する事になった私に処方されたのは、ペンタサ錠剤とステロイド、そして大量のエレンタールとフレーバーの入った段ボール箱でした。
毎日きちんと飲んでも飲んでも無くならないエレンタールの置き場所が、飲まなくなる迄の一番の厄介でした。笑
家に帰ってきた私を家族は皆おかえりと暖かく迎えてくれ、沢山抱きしめて貰いながら頑張ったねぇと泣いてくれて、入院中にIBD料理を学んでくれていた実母の料理で盛大にお祝いをしてくれました。
(現在はこの時の実母のレシピを参考に、日々脂質と睨めっこしながら食生活を気をつけているお陰か、CRPは常に0.1をキープしています。)
そして念願だった学校生活に5月から戻る事が出来て、1ヶ月スタートが遅れたものの新しいクラスメート達と過ごした私は、幸いにも私の病を理解して普通に接してくれる優しい友人達に恵まれました。
時々体調を崩し気味にもなりましたが、無理せず学校を休んだり、保健室の常連になっても理解してくれていた先生方は、皆さん優しく気遣ってくれました。
(昼食後の午後からの授業が特に体調崩し易かったです。やはり食事、大事。)
そうして不安だったけれど修学旅行にも行けて、病気になってからの二年間を周りの理解と優しさに守られながら毎日を乗り越え、よく休んだせいで単位が危うい教科も中にはありましたが、長いようで短いあっという間の高校生活を満喫し、留年する事無く、何とか無事に卒業する事が出来ました。
ーー仕事、結婚、出産
……ですが、大変だったのは卒業してからでした。
お恥ずかしながら、卒業間近に取った運転免許証以外の、特に得意な事も資格も何も無く、毎日体調の不安を抱えて生きていた私は一般の企業に就職しても長続きする自信が無かった事もあり、卒業してからはコンビニのアルバイトや製菓の会社のパート、派遣の仕事等々、体調を考慮しながら働き、ストレスを溜めず、フルタイム勤務はしないようにしていました。
都会暮らしではなく田舎暮らし、一人暮らしではなく実家暮らしだったから何とかなっていたと思います。
その上貯金が無かったので、将来への不安も常にありました。
ですが、大事なのは自分と体調を優先して周りの負担を減らす事だと逆に開き直り、両親にも甘えられる内に甘えようかなと、いつか一人立ち出来る事を目標に、貯金を少しずつ貯めていました。
そんな暮らしをしていた時に、ネットでメールのやり取りをする中で意気投合して出会った男性とお付き合いする事になり、穏やかで幸せな四年間の交際を経て、25歳の時にプロポーズを受けて結婚したのが今の旦那です。
彼は心身共に健康で性格も優しく、一緒に居ると精神的にとても楽で、交際中も結婚してからも未だ一度も喧嘩した事が無いのでストレスを感じる事も無く、私の病気の事も理解した上で私を選んでくれた最高のパートナーです。
彼の家族もとても優しく明るい人達で、私の事をいつも気遣い、親切に接してくれています。
私は周りの人に恵まれているなぁ~と、病気になる前からも良く思うのですが、彼に出会えた事は人生頑張って生きてきて本当に良かったな、と今でも毎日思っています。
そうして家族からも祝福され、実家を出て地元からも離れ、彼の地元での二人の新しい生活が始まり、さあ新天地でもまた地道に働くぞ~って思っていた矢先に発覚したのが第一子の妊娠でした。
クローン病になる前も、なってからも私の生理周期だけは変わらず定期的で、その月には来なかったので不審に思い市販の妊娠検査薬を使ってみたところ、結果は見事に陽性でした。更に念の為に、もう一週間様子を見て検査薬を使ってみましたが、やはり結果は陽性でした。
嬉しい半分、ドキドキと不安少しの気持ちを抱え、潔く彼に妊娠したと伝えた所、最初は驚いてた顔からみるみる笑顔になって
「ありがとう!」
と言ってくれたので、産んで良いんだなぁと、とても安心しました。
その後は両方の家族にも直ぐ報告しました。(両家共に初孫だったので、めちゃくちゃ喜んでくれました笑)
妊娠が判ってから初めての通院日、M先生にも結婚した事、妊娠した事を報告すると
「おお!そうか、両方おめでとう!じゃあ無事安心して出産出来るように、薬を変えたり、出産する病院何処にするかと、レミケードの日程をどう打っていくか考えようか!」
と、直ぐ今後の事を色々気遣い、提案して下さいました。
先ず薬はステロイドの代わりにアザニンになり、あとはメサラジン(元ペンタサ)の二つになりました。
エレンタールは飲まず、レミケードは変わらず八週間毎に打つが、出来れば出産前に最後のレミケードを打ちたいので予定日の二週間前位に来てほしいと言われ、逆算したら三週間前には来れそうだったので大丈夫でした。
また、お腹の赤ちゃんにはレミケードの効果が残ってしまうので、出産後の生ワクチン(ロタ)は打っても効果が無いと説明されました。
最後に出産する病院については、初めての妊娠で私が色々と不安が生まれてしまったので、嫁ぎ先ではなく地元の総合病院に実母と検診を通う事で不安は解消されました。
夫は基本的に平日が仕事だったので、あまり検診には来れなかったのですが、始めと中間と最後の検診の時には有給を取ってくれたので嬉しかったです。
……二人目は余裕が出来たので嫁ぎ先の総合病院にして、検診も一人で行けましたが。笑
そうして悪阻(軽めではありましたが、一度だけ倒れかけました。)や手足の浮腫み、便秘等の一般の妊婦さんと同じ悩みを抱えながら順調に毎日を過ごし、けれど出産1ヶ月前に切迫早産になりかけてしまいウテメリンを処方され、我が家ではなく実家に里帰り帰省して毎日ただゴロゴロと横になって過ごしました。
(少しでも家事をしたり動いたら、う、産まれそう!?ってなってました笑)
予定日の三週間前に何とかレミケードを打ち、ウテメリンもそろそろ要らないだろうと35週で処方をやめて頂いて36週に入った途端に産気づき、出産予定日よりも二週間も前でしたが、夫と実母の立ち会いの元、待望の長女が無事産まれました。
そこからは毎日が怒涛の子育ての始まりで、退院当日にインフルエンザにかかって我が子と引き離されたり
(私の代わりに夫と実母がお世話してくれました。
お陰で夫は一通りの育児を覚えてくれたので、体調や精神的に不安定な時は任せてます。)、
産後のレミケード中は母乳を吸われないので胸が母乳でパンパンに溜まってしまうので点滴前に授乳室か車の中で吸ってもらったり、ロタが打てないので長女が三ヶ月になるまではなるべく人の多い場所への外出は控えたり、同じ頃に生理が再開してしまい早すぎない!?と落ち込んだり等々色々ありましたが、長女は何の問題も無くスクスクと成長してくれて、私も産後の肥え立ちも良く、一般の子育てと変わらない忙しなさで毎日を充実して過ごしました。
そんな日々を過ごす中で、長女が二歳を迎えた頃に今度は下の子の妊娠が発覚し(また妊娠検査薬で判りました笑)
M先生に報告した所、じゃあまた前回と同じようにスケジュール組み立てていこうね~と、二回目の妊娠は最早慣れたもので、悪阻も軽かったのでかなりスムーズに過ごせました。
上記にほぼ書きましたが、挙げれていなかった結婚式を挙げたのも妊娠6ヶ月、安定期に入った時だったのでお腹も目立たず、体調も頗る安定していたので、身内と数人の友人達だけを招待して、料理も花嫁の私が食べられる物を考慮して作って頂けたので綺麗に完食し、ささやかでも幸せで素敵な式を挙げる事が出来ました。
そうして迎えた二人目の出産も、出産予定日より二週間早かったものの、夫は出張中で立ち会えず実母が立ち会ってくれた中、長男が元気良く無事産まれました。(どうやら私は早産傾向があると潔く認めた瞬間でしたね。笑)
退院してからは今度は実家へ里帰りはせず、夫と二人で子育てと家事を分担して過ごしました。
上の子のイヤイヤ期が始まりかけていたので、家族皆赤ちゃんが居る生活に慣れる迄は大変でしたが、両親達や周りの手助けのお陰で、こうして現在の今日まで家族四人、何とか毎日を過ごしております。
ーー最後に
クローン病になって、私が失ってしまった物は勿論沢山ありますが、得た物の方が幸せだなぁと思えるのは、本当に周りの人や環境に恵まれていたからだと私は思っています。
自分に出来る事は、とにかく食事を気をつける事と、なるべくストレスの無い生活を送れるように日々努力する事しか出来ませんが、ずっと寛解が出来ている事で病と上手く付き合っているという自信を改めて持ち、私の事を愛してくれる人達の為に、いつか完治出来る事を夢見て、今は自分の事を大切にして、日々感謝を忘れずに過ごそうと思います。
とても長くなりましたが、以上で私のIBD体験談は終わりです。
初めての体験記を何とか書き切れて良かったです。
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました!