患者体験談

ーー自己紹介

 

こんにちは、92(くに)と申します。

高校1年生の春にクローン病と診断され、13年ほど経ちました。北海道在住の女性です。

 

今回体験談を書かせていただくことになり、何を書こうか悩みました。数日間いろいろと振り返り、学校生活や進路、就業について書こうと思います。ついでに恋愛事情も。性についても触れたいのですが、今回は保護者の方も読まれると思いやめておきます。

 

この体験談が誰かの参考や励ましになれば幸いです。

 

ーー高校生活

 

高校に入学してまもなく、微熱とだるさが続き徐々に悪化。採血の結果入院となりました。

 

1ヶ月ほど検査を繰り返し転院の話題も出た頃、念の為行った内視鏡検査でクローン病と診断がつきました。

 

この頃目立った腹部症状はありませんでしたが、お腹の中は炎症がひどかったようです。

 

診断当時はほっとした気持ちになりました。先の見えない日々から抜け出して、「ようやく治療ができるんだ」という気持ちが強かったです。

 

対して、両親は診断を聞いて固まっていました。難病という言葉から娘の死も連想していたようです。病気を受け止めきれないでいる両親にはこれからあまり頼れないなと感じました。

 

入院して数ヶ月経った頃に、学級委員の子が担任と一緒にお見舞いに来てくれました。このことが私と両親が復学について考えるきっかけになります。

 

主治医は学校生活の重要性について理解がありました。すぐに通学の許可がおり、翌週から通学を再開。点滴のチューブを腕に固定し、制服に着替え、毎朝母親に送迎してもらいました。それまで病院から通学できるなんて考えもしませんでした。

 

学校側はまだ準備ができていませんでした。両親も学校への説明を忘れていたため、私は同級生に「どうして今まで不登校だったの?」と聞かれたり、部活の顧問には「病気が治ってから学校に来なさい」と言われたりしました。自分でもまだ上手く説明ができず、病院に帰って泣いたのを覚えています。あの日が一番辛かったです。

 

今回、改めて当時の担任に連絡を取り、生徒が病気で通学できない場合、学校側はどんな情報が欲しいのか聞いてみました。

 

「病名」「どんな状況なのか」「同級生にどこまで話していいか」「学校生活で注意する点」これらの情報を教えてもらえると復学時のサポートを行いやすい、とのことでした。学校側でもできるだけ病気のことは調べるけれど、個人差もあるのでその子の情報を教えて欲しいとのことです。

 

急に再開した学校生活はとても気が重いものでした。同級生の名前はわからないし、友達もいなくて学級委員の子だけが頼り。でも頼りっぱなしも気が引けて、ただ座っていました。

 

あの頃の目標は「とりあえず通うこと」でした。通学するうちにクラスメイトと話す機会も増え、徐々に自分の居場所を見つけていきました。

 

高校時代入退院を繰り返していた私は、学祭などのイベントにまともに参加できることが少なかったです。

 

点滴の調整を忘れられて学祭のパレードの時間に間に合わなかったり、修学旅行でエレンタールしか口にできなかったり。ものすごい悔しかったし、どうしてこうなったんだと何回も考えました。

 

どこか遠くへ逃げ出したくて、深夜に病院を抜け出して星を見たり、外来を徘徊して警備員さんに注意されたりしていました。

 

当時はその苦しさについて誰にも話したくありませんでした。わかったふりをされるのが一番嫌でした。

 

両親も育て方や病院の選び方についていろんな人に責められていたようで、誰にも気持ちを吐露できなかったらしいです。

 

お互いに辛さを抱えて接し方がわからないでいたので、家庭内はいつもギクシャクした空気が流れていました。お互いよくあの時期を乗り越えたな、と思います。

 

高校生活では辛いこともありましたが、振り返ってみると楽しい思い出もあります。

 

入院中にいつも通り外出許可をもらって学祭に参加し、絶食中に露店で焼き鳥を売ったり、学校でエレンタールを友達に飲ませて自分が飲んだことにしたり、クラスに呼びかけて流星群を眺める会を開いたり。自分なりに青春を過ごしていました。

 

進路調査が行われた頃、私はすでに進学するという固い決意がありました。

 

診断されてまもない頃、父親は「お前は一生俺が養うからな」と言い放ち、その言葉は今でも私の中に深く残っています。「病気だから自立することも難しいだろう」そんな気持ちがあったのだと思います。

 

でも私は自分の人生が生きられなくなるという危機感を感じました。飼い殺しにされるは絶対ごめんだ!テコでも自立してやる!そんな気持ちで進学を決意していました。

 

幸いにも、入院生活を通じて身の回りのことを自分でする習慣がつき、食事制限を自分でしっかり守っていたおかげで、家を離れることに反対はされませんでした。授業料の安い国立大学を目指したことも大きかったと思います。

 

いろんな人に勉強を支えてもらいながらどうにか合格し、希望通り家を離れて生活することになりました。

 

ーー大学生活

 

大学時代には一人暮らしを始めました。家族に気兼ねしないで食事ができて、体調を考えて食事を抜いても過剰に心配されずに済む生活。とてもリラックスできました。

 

食べられる食材の中でいろいろな料理を工夫するのも楽しかったです。それにトイレが占領できるのも大きなメリットでした。

 

実家を離れることで両親の気持ちにも余裕ができたようで、良い意味で親離れ・子離れができたと思っています。

 

入学して数ヶ月後、血便が続くようになりました。限界を迎えていた腸を一部切除することになり、主治医と相談して春休みに手術を行いました。

 

この手術のおかげで数年間の寛解が訪れます。術後にエレンタールを経管栄養(いわゆる鼻チュー)をしていましたが、体調も良かったためそのうちしなくなりました。

 

大学では看護学を学びました。入院中に出会い、優しくしてくれた患者さんたちになにか恩返しがしたいという理由が大きかったです。加えて、患者の立場がわかる自分だからできることもあると感じていました。

 

医療現場であれば病気への理解も得られるはず、と思ったのも一つの理由です。

 

学科の友達や、サークル(医療問題について勉強するサークルでした)のメンバーも病気に理解を示してくれました。

 

外食の時は焼き鳥屋や居酒屋を選んでくれたり、手料理を作ってくれる人がいたり、本当に恵まれていたと思います。体調が良い時はお酒も飲んでいました。

 

病気については常にオープンにしていました。食事制限の関係もありますが、IBDをいろんな人に知ってもらいたい、知っている人が多くなればもっと理解を得やすい社会になるはずだとも思っていました。

 

医療系学生の中でIBDの勉強会を開いたり、医学科の子には「消化器内科の先生になろうよ!」とたくさん言っていた気がします。

 

おかげで当時の主治医のところには私の知り合いの医学生が実習に現れる機会が多かったようです。そういう不思議な関係も楽しんでいました。

 

看護学生といえば大変なのが実習です。実習期間は睡眠時間を確保できないことが辛かったですが、エレンタールゼリーをお弁当にしたり、体を冷やさないようにしたり、体調管理にはとても気をつけていました。

 

友達の協力も大いにあり、実習をはじめとして試験や卒論も乗り切り、大学生活は無事幕を閉じました。

 

ーー社会人生活

 

就活においては教員の先生たちにもアドバイスをいただきました。持病が悪化して現場を離れ、大学で研究をしている先生がいて、教員になる道もあることを知りました。

 

でもやっぱり私は患者さんのそばにいたかった。万が一、働ける期間が短かかったとしても、その後につながる知識が得られるように教育の充実した病院を選びました。

 

履歴書にも持病について書いたので、面接では症状や治療、どんなサポートが必要かを中心に質問されました。質問される事が予想しやすい分、気持ちは楽でした。

 

看護師として働くのは楽しかったです。患者さんから良い評価をいただいた日は、自分の経験が活かせている!と達成感を感じることができました。

 

体調が良かったこともあり、当時の恋人との結婚も考えていたため、主治医と相談して免疫抑制剤の減薬を始めました。(当時は妊娠を希望する場合は内服しないほうが望ましいという考え方が一般的でした。現在は継続するのが主流かと思います。)

 

しかし徐々に体調は悪化。内服量を元に戻しましたが、体重は減り続け、生理も止まり、とうとう入院することになりました。数カ月間入院し、これを機に経管栄養を再開しました。

 

復職の際には負担の大きい夜勤の免除を申し出ました。しかし経験が浅いこともあり、他の病院への転職を勧められました。この時に上司とよく話し合えていれば良かったのですが、「看護師なんだから自己管理くらいしっかりしなさい」と言われポッキリ心が折れてしまい、退職しました。

 

その後、他の病院でも勤務しましたが、繰り返し感染症にかかったことや、再びクローン病の悪化で入院となったことなどで数回転職することになりました。

 

この経験を通してつくづく思うのは、大きい企業のほうが誰かの休みをカバーできる人員に恵まれているし、持病のある人を雇った前例もあることが多く、味方になってくれる人がいる可能性も高い、ということです。

 

また体調を崩しやすい私は周りの人とのコミュニケーションを大切にして「病気を含めた自分」を組織の一員にしてもらうのが大事なのかなと思っています。

 

現在私は結婚を機に医療現場から離れ、デスクワークをしています。

 

次回増悪してしまうと手術の可能性も高くなるため、仕事もセーブ中です。

 

妊娠出産を考えると手術は出来るだけ避けたいので、夫とも相談し、今は家族を増やすことを目標にする時期、それが終わったらまた仕事について考える時期と決めています。

 

ーー恋愛事情

 

今まで書いてきたように、私は病気のことを常にオープンにしてきました。このため、恋人になる人はいつも交際前から病名や食事制限について理解してくれていました。

 

結婚の話が出た際、現在の夫には将来のことについても話しました。私はこれからの人生で何度も入院することが予想されること、将来的にストマや点滴生活になる可能性もあること、今までいろいろな薬を使った母体でもよければ子供が欲しいこと。

彼はひとこと「大丈夫だよ」と言ってくれました。

 

ここまで細かく説明する必要はなかったかもしれません。でも現在体調の相談もしやすいので、あの時説明しておいてよかったと思っています。

 

彼の家族に会う前には彼から病気についての簡単な説明をお願いしました。初対面でいきなり持病の話をすると混乱させてしまうと思ったからです。

 

でもご両親の反応を聞くまでは、病気を理由に拒否されるのではないかととても怖かったです。

 

結果として、夫の両親は思うところもあったようですが、その気持ちも正直に伝えてくれた上で「息子が選んだ人だから」と仲良くしてくれています。

 

ーー現在の治療

 

今まであまり触れませんでしたが、現在は(内服)ペンタサ、アザニン、ステロイド、エレンタール(注射)ヒュミラ を使用中です。過去にはレミケードとステラーラも経験しています。

 

栄養面では夜間経管栄養でエレンタールを注入し、日中もエレンタールを経口摂取、夜に少し食べるという感じで食事制限を継続しています。

 

ーーさいごに

 

私は高校生の頃からSNSを通じ、いろいろなIBDの先輩患者さんたちと関わってきました。

 

その中で強く思ったのは、同じ病気の人たちの希望になりたいということです。

 

学生の時はバリバリと働いている姿を示すことが誰かの希望になると思っていました。

 

でも社会人になった今、私は私の人生を楽しく過ごすことが誰かの希望につながるのかなと思っています。

 

クローン病になって13年間、高校生から社会人までの体験談を書かせていただきました。

 

昔より漠然とした不安は減りました。挫折しても「次はこうしよう」と考えられるようにもなりました。

 

人生は重ねていけばどうにかなるものです。大変なこともあったけれど、いままでどうにか乗り越えてきた。その経験が私の「これからも生きていける」という自信につながっています。

 

長くなってしまいましたが、これで終わります。この体験談が誰かの参考や励ましになれば幸いです。

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