患者体験談

・自己紹介

 

HN/ノリタカ

居住地・京都

年齢・30代

職業・フリーランス

IBD歴・12年程

その他の疾病・双極性障害

 

この度、執筆の機会をいただきましたので、僭越ながら闘病体験や、それに伴う就職や転職、失敗とそこから得たものなど…自分なりに書いていきたいと思います。

 

ーー発症から診断に至るまで

 

お腹の調子がどこかおかしいと感じ始めたのはちょうど高校三年の受験シーズンでした。おそらくは受験のストレスと、ちょうどその時に失恋をしてしまい、それが重なったと同時に今まで感じたことのない腹痛の日々が始まりました。

 

腹痛が始まっても、それだけで学校を休むわけにはいかないと思い最初は堪えながら通学していましたが、授業中にトイレに行くことの恥ずかしさや、休憩時間も毎度トイレの個室に入る苦痛に耐えきれず、高校3年途中で登校拒否(保健室登校が精一杯)となりました。

 

今思えば何も恥ずかしいことではないのですが、中学・高校といった時期は特に男子トイレの個室に入るということは揶揄われがちでした。

 

自分で表現するのもおこがましいですが、小さな頃から腹痛が始まるまでは「明朗活発」と毎度成績表に書かれるほどに明るい性格でした、クラスの友人とも調和を保ち、中心に居れるようなそんな日々でした。

 

腹痛が始まってからは、極力人と関わることを避けるようになりました。幸にして1、2年の出席日数がほぼ欠席無しでしたので、高校はなんとか無事卒業を迎えることはできました。しかしながら、友人との付き合い、受験の失敗、など失ったものは多く有りました。

 

そして、そのまま希望校ではない大学に、目標もなく、友人も作らず通う日々が始まりました。今思えば大金を払って親に通わせてもらっていたこと自体贅沢なことですが、当時の私には苦痛でしかありませんでした。

 

通うにあたっても公共交通機関を乗り継がなければならず、「乗らなければいけない」と思っただけで腹痛が止まらない状況、今思えばIBS(当時は病名すら聞いたこともありませんでした)だったのかもしれません。

 

そして行きたくても通えない、単位が取れない、親には大声で叱られてしまう…理解してもらえる人が誰もそばにはおらず、とても孤独でした。

 

しかしさすがに2回生になった頃、このままでは留年してしまうという危機感から、なんとか教習所へ通い、免許を取得し、バイト代で中古車を手に入れ、公共交通を使わずに大学へ通う手段をとりました、もちろん車とはいえ突然襲ってくる腹痛、それに対応する為、いかにコンビニなどトイレを借りられる場所を通るかのルート選びは欠かせませんでした。

 

そして、腹痛と戦いながらもなんとか大学4回生、卒論を書いたり、単位もあと少し、そろそろ就職活動がはじまる、という時期まで辿り着きました。

 

そんな時期にまた一段と体に変化が現れました。

 

粘血便や下血を繰り返すようになったのです。正直自分でも真っ赤な便器を見て、これはただ事ではないと感じましたが、当時まだ21,22歳の僕は「これはひょっとして癌なのか、いやたぶん痔だろう、いや、そうであって欲しい…怖い、自分はどうなってしまうのか」と一人で悩み、親にも心配をかけたくなかった為、下血の毎日をひた隠しにしながら過ごして居ました。

 

当然、そんな体の状態をずっと隠し続けられる訳もなく、ある日家で倒れてしまいました。

 

そのまま病院へ運ばれ、検査の結果「潰瘍性大腸炎」である事を告げられました。

 

周囲の皆が就職先を決定して行く中、4ヶ月間の入院、焦りと絶望の毎日、当然遅れをとってしまい就職活動をまともには行えませんでした。

 

大学の企業求人はもうほぼ無く、自分で仕事先を探すしかない状況でした。

 

ーー1度目の就職と再燃

 

「だったら好きなことをやってみよう」

 

大学時代、4年間古着屋でアルバイトをしていました。そこでヴィンテージジーンズと出会い、とにかく当時はデニムが大好きでした。それに加えて小さな頃から物を作ったり加工したりと、図工や美術好きな事も合わさり、ジーンズ職人を目指す事に決めました。

 

当時まだ実家(兵庫)に住んでいたので、日本のジーンズの産地である岡山県の企業にどんどん電話で見学や面接のアポを取り、高速道路を行ったり来たり、なんとかデニム加工企業に就職先が決まりました。

 

好きなことで頑張っていこう。病気になんて負けない。

 

しかし、働き初めてまもなくしてまた大きな再燃、また長きに渡る入院の為、離職を余儀なくされました。

 

「あぁ、終わったな、もう病気がある限り、自分は何も出来ないんだ」そう感じました。

 

当時(2007~2008年頃)、UCの治療は白血球除去療法(L-CAP)が最先端でした。たしかヒュミラやレミケードなどは治験段階でした。

 

白血球除去療法も短期的にしか効果を発揮せず、ステロイドばかりが体内に蓄積していき、累計投与量が10000mgを超えた頃にオペを視野に入れる話が進んで行きました。

 

しかし、オペの話は出ても決断をするのは患者自身、なかなか踏み切れずにいました。

 

ステロイドの大量投与による重篤な副作用として有名どころは、緑内障や白内障、大腿骨頭壊死、骨粗鬆症などがありますが、そこにもう片足を踏み入れている状態。

 

試しに、整形外科を紹介してもらい骨密度を計測したところ、骨年齢が130歳overのレベルになっていました。走ることも跳ねることも禁忌だと告げられ、そこで大腸全摘オペ(術式IAA)への気持ちがかなり固まりました、このままではまずい、と。

 

しかし、それと共に同じタイミングで先の目標も見つけていました。

 

当時長期にわたる入院の中で大変お世話になった看護師さんが2人居ました。退屈で寂しげな私の話し相手になってくれる機会も多く有り、たくさんの話をする中でその目標は見つかりました。

 

ーーオペの決意とその先の目標

 

先述したように僕は昔から「モノづくり」が大好きでした。

 

その話もたくさん看護師さんとしました、そうすると看護師さんはこんな話をしてくれました。ノリタカ君にぴったりなお仕事があるかもしれない、ちょっと調べてみては、と。

 

それは義肢装具士という国家資格でもある医療系のお仕事でした。

 

名前の通り、義肢(義手や義足、そして装具、幅広くいえば義眼から人工乳房に至るまで)を作る仕事です。

 

ただ作るのではなく、切断者の方や装具を必要とされる患者様と向き合い、mm単位での調整が必要とされる採型・採寸・仮合わせ・調整、納品、アフターサポートそしてコミュケーション、それらを全て行うお仕事です。

 

僕はある種の運命を感じました。

 

「自分の好きなことが、誰かの役に立つかもしれない」

 

「何かを失った人に、希望を届けられるかもしれない」

 

ちょうど、自分自身も大腸というひとつの臓器と別れを告げるタイミングで、義肢装具士という仕事を知り、オペが済んだら専門学校へ通い国家試験を受けるという決意をしました。

 

オペは2期に分けて無事終わり、その後は便回数との戦いなどもありましたが、半年間の療養を経て専門学校へ入学し、3年間に渡る勉強の末、無事目標であった義肢装具士となりました。

 

ーー義肢装具士として働く

 

資格取得後、就職先も決まり意気軒昂であった私はとにかく必死に働きました。正直、労働環境は過酷極まりない物でした。

 

しかし、自分の努力次第で誰かが笑ってくれる、「ありがとう」の一言で救われる、その気持ちで自分の心身を騙し騙し働き続けました。

 

ーーその日は突然に

 

奮闘し続ける毎日、疲労も限界になり始めた頃、下血という形でまず体がSOSを出し始めました。病院へ通う暇もなく、さらに体に鞭を打ちとことんまで働き続けました。

 

そして突然に訪れた「うつ病」

 

内容も内容ですので、一部割愛させて頂きますが、うつ病により休職を余儀なくされました。そして休職期間中に、もうひとつ体に異変が起こりました。

 

突然の大量下血、救急搬送され2パックほど輸血した覚えがあります、原因は術後合併症である「回腸嚢炎(かいちょうのうえん)」でした。

 

入院期間中に、休職期間が満了してしまい、そのまま退職という形になりました。

 

ーー暗闇に射す一筋の光

 

鬱病(のちに双極性障害に診断が変わる)と、回腸嚢炎のダブルパンチでことごとく心も体も疲弊してしまい、正直生きる希望すら失っていました。

 

そんなある日、携帯電話に退職した会社の先輩から連絡が入りました。「独立して仕事を始めることになった、だから一緒に働かないか」

 

なぜ僕なのだろうと、最初は疑問でもありましたが、当時の僕は暗闇の中、そのお誘いの言葉は暗闇を明るく照らしてくれました。

 

そこから打ち合わせや、色々な調整を経て「オーダーメイドの靴屋」のオープニングメンバーとして社会復帰を果たしました。

 

なぜ唐突にオーダーメイドの靴屋なのかと疑問に思われる方も当然多いかと思いますが、技師装具に含まれる「装具」の中には、ドイツ由来の整形靴技術も含まれており、足部に多い疾患に対し装具を作るということは多くあります。

 

例えば「外編扁平」「リウマチ」などに対し、フットベッド(日本で言う靴の中敷)で矯正をかけたり、足部全体を覆う靴型装具なども多く存在します。

 

それらの技術を盛り込んだ、見た目だけではない、機能性も備えた唯一無二の「誂え靴」を作るお仕事をすることになったのです。

 

ーー卒業から転職、そしてフリーランスへ

 

上記のオーダー靴屋さんに数年在籍し、知識や経験もある程度蓄積した頃、経営状況や今後の自身の進む道を考え、一度円満に卒業という形をとらせて頂きました。

 

決して仕事が嫌いになったわけでもなく、今でもオーナー夫妻とは仲良くさせて頂いてます。

 

そして、転職活動をする中で、今までアナログ一辺倒で生きてきた部分を補いたいと思い、障害者枠(双極性障害ゆえの)で、WEBやデザインに携わるお仕事に着きました。

 

ちょうどこの頃、現在の妻と出会い、結婚に至りました。

 

そしてその仕事を「ここまでが、この場で得られる限界かな」と感じた時に、離職しました。

 

現在はフリーランス…といえば格好は良いですが、在宅で自由に仕事をしています。ハンドメイド、レザークラフト、HP制作、ライティング、デザイン・イラストといった様々な分野を自分の体調と相談しながら自分のペースで働いています。

 

今のところ体調管理でいえば回腸嚢炎の大きな再燃も少なく、どちらかといえば精神疾患の比重が大きいのが正直なところです。

 

ただ共通して言えるのはやはり体調管理は大切だという事、心身のSOSに気づいてあげられなかった過去の自分への戒めでもあります。

 

「体が資本」とよくいったものだと、本当に日々痛感しています。

 

私は自分でも運の良い人間だと感じます、たくさんのご縁、周囲からのサポートがあったからこそ、今の自分があると感じます。

 

病気があったからこそ今がある…と言ってしまうのは少し綺麗事に聞こえるかもしれませんが、大きく自分を成長させてくれた材料である事には違いありません。

 

昔から好きであった「モノづくり」がいろんな段階を経て、形を変えながらも仕事として僕に生きる希望を与えてくれます、時には失敗し、壁にもぶつかります。

 

好きなことを仕事にしたら好きでなくなってしまう、という言葉をよく耳にします。確かにその点は否めません。それでも自分の中の「好きな事」をうまく調整しながら「好きなことを好きでいる」という事も大事だと思います。

 

たとえ嫌になって投げ出してしまっても、いつどんな形で自分の武器になるかなんてわかりません。少しかじっただけでも、それが何かに繋がる道かもしれません。

 

だから私は「好きなことはやってみよう」この精神で日々のモチベーションを維持しています。

 

形から入ったらいいんです、合わなかったらやめてもいいんです、でも気になったら挑戦してみてはいかがでしょうか。

 

今のこのフリーランスという働き方も、同じです。好きだからやってみる、合わない、無理だなと思ったら、また別のことに挑戦だって出来るのですから。

 

闘病しながらでも、いくつでもいくらでも可能性はある、楽しむことを諦めなくて良い。

 

私自身の姿を見て、そう感じ取ってくれる方が少しでも現れたら、それもまた一つの生きた証です。

  

ーー最後に

 

長くなってしまいましたが、最後まで拝読してくださりありがとうございます。

 

病気と付き合いながらのお仕事というのは、本当に大変な事だと感じます。その中に楽しみや生きがいを見出すのも簡単な事ではないのも重々理解しております。

 

ただ、自分の体とうまく話し合いながら時には頑張り、時には一休みして、何か自分の核となる「好きなこと」に出会い、「やりたい事」に挑戦してみる。

 

それが闘病生活をまた違った日常にしてくれるのではと信じています。

 

拝読頂いた方々、今回このような執筆の機会を頂いたGコミュニティ様にも厚く御礼申し上げます、ありがとうございました。

 

ノリタカ

コメント一覧