患者体験談

今回はランさんに体験談をご寄稿いただきました。ランさんは今月末(1/29)の田辺三菱製薬さんとの共催就労イベントにもご登壇されます。海外でのUC発症や帰国後の状況などをそのときの感情や気づきなども含めて詳細をご記載いただいております。多く患者さんにとって参考になる内容と思いますのでぜひご一読いただけましたらと思います。

 

ジーケアスタッフ

 

 

ランと申します。私は2022年1月現在、潰瘍性大腸炎歴8年の患者です。発症から数年間はなかなか治療効果が出ず、寛解導入に苦労しました。しかし、現在は体調も落ち着き、服薬と生物学的製剤の自己注射を続けながら、ほぼ症状なく日常生活を送れています。

 

この文章では、病気の経緯と仕事に関して体験を振り返り、他の患者さん方の参考になれば幸いです。

 

私は、2013年20代半ばの時にタイのバンコクの病院でUCであると診断されました。当時、私は日本の独立行政法人のバンコク事務所で日本語教師をしていました。なりたかった職業・憧れていた職場で勤務でき、充実していて楽しかったのですが、今思えば、少々頑張りすぎていました。

 

慣れない環境での異文化体験、初めての一人暮らしによる苦労、職場の人間関係に関する悩みなど、ストレスも多々ありました。それによって、少しずつ疲労が蓄積されていたように思います。

 

最初は長引くお腹の不調だと思っていたのですが、病院に行ってもよくならず、発熱・粘血便・体重減少・貧血等も発症したため、2013年の11月にバンコクの病院で胃カメラ・大腸内視鏡検査をしました。

 

その結果、中等症の潰瘍性大腸炎と診断され、経口ステロイド、免疫調整薬、5-ASAなどで治療を始めました。しかし、治療開始後も回復せず、仕事は休んで自宅療養になりました。周りに迷惑ばかりかけてとても落ち込んでいましたが、治療を頑張ろうとも思っていました。そのうちに、感染症にかかって高熱を出し、緊急入院することになりました。

 

入院中にステロイドの点滴投与も始めましたが、効果がはっきりとは現れず、どんどん体調が悪くなっていきました。IBD専門医の主治医に、もしかするとステロイド抵抗症で、その場合は生物学的製剤で治療を始める可能性があるということ、治療費やタイで生物学的製剤を行うリスクも考慮すると、再検査を含めて日本で行った方が良いだろうと提案されました。

 

私にとって、帰国は寝耳に水の話でした。それまで、しっかり治療したら良くなって職場に戻れると信じていたのです。しかし、主治医と職場の上司も入れて話し合った結果、私は帰国することになりました。

 

私はその時、海外で日本語を教える専門職として働いており、タイの次はマレーシアの事務所に赴任することが決まっていました。私のポストは海外派遣専門であったため、期限付きではなく本帰国するのであれば退職となってしまうものでした。上司からは、1か月程度であれば退職ではなく病気休業にできるので、一時帰国して治療してはどうかというお話もいただきました。

 

しかし、当時私は体調がとても悪かったため、なったばかりのUCという病気が1か月程度で回復し、元のように海外で生活しながら授業ができるのかどうか、自信がありませんでした。日本の家族にも相談して考えた結果、退職して日本でしっかり治療を受けることを選びました。帰国日は12月下旬に決まりました。

 

退職し帰国することを考えると、私は自分が担当するコースの学生たちや、私の分の授業を途中から代わらなければならない同僚の先生方に、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。お見舞いに来てくれた同僚・学生・友人たちの誰1人として非難するような言葉はなかったのですが、私自身は自分をとても責めていました。親しかった同僚の先生や事務職の人が、病室で落ち込んでいる私と一緒に泣いてくれたことを、今でも鮮明に覚えています。

 

それから帰国まで、怒涛のような1週間でした。タイ人・日本人を問わず、友人、知人、同僚など本当にたくさんの人に助けてもらいました。私は入院中で動けなかったので、仕事・アパートの部屋・銀行口座などの帰国に関する様々な事務処理から、職場の机や自分の部屋の片づけ、荷造り、航空会社との交渉まで、全部友人や同僚が協力してくれたのでした。

 

まさに迷惑かけっぱなし、立つ鳥跡を濁しまくり状態の私だったのですが、それにも関わらず、帰国数日前に退院した時は知人が身元を引き受けてくれてお宅にお世話になったり、出国前には友人数名と同僚が空港の出発ゲートまで付き添ってくれたりもしました。私は、皆に助けてもらいとてもありがたかったのですが、一方でたくさん迷惑をかけてしまって申し訳ない気持ちと、何もできない自分に無力感を感じていました。

 

「助けてもらうばかりで、ちっとも恩返しできていない」と落ち込む私に、友人は「ランちゃんが元気になったら、誰か他の人を助けてあげればそれでいいんだよ。ペイ・フォワードだよ」と笑って言ってくれました。その言葉が、今の私の原動力になっています。

 

海外で一人暮しをしている時にUCになってしまい、治療のため突然帰国しなければならなかったことは、とてもショックで大変な経験でした。しかし、私はタイ人・日本人を問わず周囲の人たちのおかげで、決して孤独ではなかったのだと思います。とても感謝しています。

 

日本では、帰国した次の日から大学病院に入院し検査を受け、UCだと診断を受けました。しかし、タイで治療をしていた効果か、なんとなくステロイドが効いてきたので退院でき、経口ステロイド、免疫抑制剤を継続しつつ外来治療へ移行しました。

 

免疫抑制剤の副作用で吐き気がひどかったので、胃薬を追加したり飲み方を変えたりもしました。その後、経口ステロイドも離脱でき、血液検査も良好で一時は血便もなくなりました。

 

しかしながら、体調は良くなっても、突然のUC発症と帰国への戸惑い、今後への不安などメンタル的な辛さがとてもありました。状況が目まぐるしく変わっているのに、自分の体は日本にいるけれど心はまだバンコクにいるようで、追いついて来ない感じがしていました。

 

2014年6月、日本へ帰国してから半年ほど経った時、学生時代の恩師に外国語教育関係の公益財団法人を紹介され、週3回事務のアルバイトを始めました。面接ではUCについても正直に伝えました。UCになってからの初めての職場で心配でしたが、事業内容も興味がある分野で、事務仕事も体にはあまり負担がかからなかったので、楽しく働かせてもらいました。

 

私は初めての事務職で分からないことも多かったのですが、自分が日本語教師をしていた時に事務職員の方のサポートにとても助けられていました。ですので、どんな小さな仕事でも職員の方のサポートになればと、比較的前向きに取り組めたと思います。

 

もくもくとPCで作業をする職場でしたが、だからこそ明るく挨拶したり、給湯室で積極的にコミュニケーションを取るようにしたところ、職員さんとなじみ「ランさんがいると和む~」と言ってもらえるようにもなりました。その結果、自分自身も働きやすくなりました。

 

また、メールで外部とのやりとりも多い業務内容だったので、締切から逆算してスケジュール管理に努めたり、担当職員へこまめにメモやメールを送ったりして、情報共有に努めました。体調の変化が人より多いからこそ、今でも周囲への情報共有は大切にしています。

 

私にとって再び仕事ができるようになった事は、とても楽しくありがたい事でした。仕事を通じて色々な人と出会えることは、UCという中に押し込められそうになっていた自分にとって、外界へ通じる窓でした。しかし、UCになる前とは比べ物にならないくらい体調としては疲れやすく、お腹の不調はありました。

 

主治医には「普通にしなさい」と言われていたので、私は私の「普通」の感覚で、UCではなかった頃と同じように活動しようとしますが、体が付いてきません。すぐに疲れたり、お腹の調子が悪くなったりしてしまい、思うように動けない自分がとても嫌でした。

 

先生は「もう大丈夫、普通にしなさい」と言っているのに、UCになる前の自分や、周りの友だちと同じようにできないのはどうしてだろう、おかしいのではないかと思っていました。もうよくなったと言われているのに、体調はなんだか優れず、頑張りたいのに頑張れないという状況は、精神的にとても辛かったです。周りや過去の自分と比べてしまって辛いということは、若いうちに発症する方が多いIBD患者さんではよくあるのではないかと思います。

 

発症から1年後2014年の9月、大腸内視鏡検査をすることになりました。その前からすっきりしないぐずぐずとしたお腹の不調は続いていたのですが、内視鏡をした後に下痢・腹痛が止まらず、ついに下血が始まってしまいました。

 

再燃です。薬を追加、増量などしましたが、あれよあれよという間にお腹は大炎上。11月に通院した際にはそのまま入院することになってしまい、びっくりしました。職場には、病室から電話をして事情を説明し、休職にしてもらいました。

 

2ヵ月前から続く私の体調不良を知っていた職場の方たちは、快く休職させてくれましたが、事務のアルバイトは私1人だったため、突然の休職で迷惑をとてもかけたと思います。結局、その時は1ヶ月半入院し、時々報告の電話を入れながらずっと仕事も休んでいました。

 

(続く)

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