患者体験談

今回は高校生の時に発症され、その後さまざまな治療の経験を経て、現在も仕事人としてのキャリアを着実に積み上げていらっしゃる女性のクローン病患者さんであるabqさんの体験談です。前編・後編の2部に分けて紹介させていただきます。治療経緯、病気と仕事の両立に加え、前向きな考え方が印象的な体験談です。ぜひご一読ください。 Gコミュスタッフ
ーー診断経緯
元々お腹が弱い傾向はあり、小学生の頃からたまに盲腸のあたりが痛くなったり、マラソンしてるとお腹痛くなったり、ってことは、よくありました。でも、高校生になるまでは、特別大きな病気もなく、学校も無遅刻無欠席で、部活を掛け持ちしていたり、健康そのものでした。
今となっては朧げな記憶ですが、高校1年の終わりから2年の夏にかけて、“授業中にお腹が痛くて脂汗をかきながうずくまっている“とか“食欲がなくなってきてお弁当の量を減らしてもらっていた“みたいな記憶があり、その頃からクローン病の症状は出ていたのだと思います。
病院に行くことになった決定的な理由は、喉のひどい痛みと38度台の発熱、歯茎にみっしりと広がる異常なレベルの口内炎でした。下痢はおそらく長く続いていたかと思うのですが、さほど意識はしていませんでした。
発熱と口内炎がなかなか治らないので、近所の診療所を受診したところ、採血結果が異常(重度貧血・血小板増多症・血液凝固異常)であった為、一時的にステロイドを服用しました。ステロイドで症状が軽減したものの、服薬をやめたとたんに、足の腫れ(結節性紅班)がでてきました。
結節性紅斑で足が痛くて、当時高校へ自転車通学をしていたのですが、雨の日に傘をもちながら運転していたら、足が痛くてバランスを崩して、スクーターとのすれ違い時にふらついて、派手に転んだのを覚えています。体力的にかなり限界な状態だったのだと思います。
地元の診療所で、割と大きめの大学病院を紹介されて受診をしました。病院といったら、地元の小さな診療所しか受診したことなかった私は、大学病院に紹介されてしまうなんて、死んじゃうような大きな病気だったらどうしよう、、、と、かなりビビっていました。。。。採血ですら、ものすごく怖くて緊張していました。
足の腫れは、大学病院で結節性紅斑と診断され、皮膚科に入院することになりました。しばらく入院しても症状は良くならず、皮膚生検(局所麻酔で、皮膚の一部をくりぬき組織を検査する)を行ったりもしましたが決定的な原因はわからない日々が続いていました。
結節性紅斑の症状が現れる原因となる病気の一部に膠原病やクローン病があり、あくまで、そういった病気の可能性をつぶす為に、注腸造影の検査が予定されました。
この検査の前処置の下剤(マグコロールP)が、気持ち悪くて飲むことができず、、、一旦飲めたとしてもすぐに吐いてしまって、検査時刻までにお腹が綺麗にならず、2度位検査を延期することになりました。
検査すらまともに受けられない自分が申し訳なくて、先生や看護師さんに泣きながら謝っていました違う種類の下剤なら検査できるかも!?ということで、検査内容を大腸内視鏡に切り替えて、ニフレックという下剤で、なんとか検査決行!!!
検査はとにかく苦しかったです。うめきながら、「痛い痛い」と言いつつ耐えていました。痛み以上に怖さがあったと思います。
検査中に、大腸内に潰瘍がみつかり、検査担当医が「こりゃクローンかもな〜」とつぶやいていて、その言葉が忘れられませんでした。
確定診断がくだる前に、私の中では「私はクローン病なんだ。。」と思いこんで、とにかくクローン病について調べたり、もはや、まだ確定診断されていないのにも関わらず、気持ちは立派なクローン病患者として、確定診断までの日を暗い気持ちで過ごしました(自主的に食べもの制限したりしていました。)内視鏡から約一週間後、検査結果が出て、正式にクローン病と診断されました。
「社会生活は送れる病気です。この病気自体が原因で死ぬことはありません。」的な説明を受けたと覚えています。「社会生活は送れるのか。。。」と、ほっとした気持ちがあった気がします。というか「社会的な生活は送れるんだから、大丈夫大丈夫、、」と自分に言い聞かせていました。
ただ「社会生活」と一言に言っても、それを一人前に送るのがどれほど大変なのか、この言葉の持つ意味の本当の重さや大変さを実感するのは、ずいぶん先となりました(当時は全然わかっていなかったな、と今では思います)・
告知の時に、泣きはしませんでしたが、自分ごとのような、そうでないような、、なんだか不思議な気持ちで聞いていた気がします。
身体にはずっと症状があったので、クローン病による体調不良状態は、グラデーションのように続いていたのに、書面上は、今日からがらっと、“ただの体調不良の人“から“クローン病という難病患者“になってしまって、その落差に、くらくらして、ついていけませんでした。
告知に同席していた母親も泣いたり喚いたりはせず、ただ黙っていましたが、、逆にその沈黙が、彼女自身の困惑と衝撃を表していたんだろうなって、今では思います。
ーー学生生活
高校2年生の5月中旬から夏休みまでずっと入院をしていた為学校は休んでいました。進級等には影響せずに済みましたが、当時ラクロス部に入っていた私は、夏の合宿を楽しみにしていたのに入院していたせいで参加できず、本当に悔しい思いをしました。
高校3年の冬までは、通院とエレンタールと食事制限と服薬とで特に問題なく過ごしていました。友達とファミレスに行く時とかは、雑炊とか食べていました。本当は、みんながシェアしあいながら食べているフライドポテトとかハンバーグがものすごこく羨ましかったです。
大学受験の勉強が佳境になってきた10月くらいからCRPは2を超えて、どんどんあがっていき、受験本番の2月頃に4.6となりました。医師からは入院を勧められましたが、大学受験が終わるまでなんとか待ってもらえるよう、鎮痛剤を処方してもらいながら、試験を乗り越えました。
結局滑り止めの大学にしか受からなかったのですが、病気になったことで、心理学を学びたいと思っていたので、心理学の学べる学校には合格できたのでよかったです。
卒業式が終わった後、入院絶食となり、この入院生活は、大学入学後の7月まで続きました。入院している病院から、大学の入学式に行き、病院から毎日大学へ通って授業を受けるという日々でした。
当時の医師や看護師は、それこそ家族のように親しく、日々あったたわいのないことを喋ったり、恋の話をしたり、年齢のずいぶん離れた病気仲間の知人ができたり、、と、この頃の入院生活は、悲壮ではなく、かなり楽しいものだったと記憶しています。
ちょっと普通じゃない生活をしていた私ですが、大学でも、ちゃんと友達ができ、友達の中では、私がご飯を食べないことは当たり前となっていました。
少し調子が良くなって、うどんとか食べれる時があると、友人は「abqっぴが、ご飯を食べてる!!!自分のことのように嬉しい!!!」と喜んでくれました。
大学の長期休みのたびに入院をしていたり、なんなら大学から通学していることもあったので、“大学生といえば“のサークル活動もアルバイトもほとんどしておらず、家と大学と病院を往復し続けていた4年間でした。
大学在学中の4年間はずっとステロイドを服用しており、食事ができない時期、もしくは栄養剤だけで過ごしていた時期が多く、友達と何かを食べに行ったという思い出はありませんでした。大学3年の冬に緊急のオペになって3ヶ月程度入院していた時は、ベッド上で大学の課題をやっていたりして、履修状況がぎりぎりな時もありましたが、なんとか卒業することができました。
大学3年の冬に緊急手術をすることになり、在宅で中心静脈栄養の点滴をすることになりました。鼠蹊部に中心静脈点滴を管理するためのリザーバーを埋め込み、ストーマも造設されました。点滴とルートと針と、交換用のパウチを持って、友人と卒業旅行に上海へ行くこともできました。(旅行の荷物がものすごく重くて、上海で荷物を持ってくれたホテルの人が、「死体でも入っているんじゃないか」と言って驚いていました)
普通の健康な身体の人なら、、、もっと色々な経験ができたんじゃないか、とも思いますが、自分では頑張ったんじゃないかなと思います。心理学を学ぶつもりで入学した学校でしたが、この大学で死生学という学問と出会い、どっぷりはまってしまいました。
病気になってから、「死」というものが自分の延長線上にあることを強く意識しましたし、入院中に仲良くなった人が亡くなることもありました。「死」のことを考えながら、より強く「生」を求めていたと思います。
ーー社会人になってからのキャリアの変遷
就職活動をしていた当時、一時的に障害者手帳を持っていた私は、それを利用してとある旅行会社から内定をいただき、出向という形で海外旅行の格安航空券の卸売をする会社(ホールセラー)で働くことになりました。
営業企画課に配属され、今で言うバリキャリな女性上司の元で社会人としての基礎を教わり、4年半そこで働きました。在職中に旅行関連の国家資格を取得し、新人さんや派遣さんに業務を教えたり、物流関連の業務をしたり、たまに営業部が社外に行う商品説明会のヘルプで司会をしたりと、色々経験させてもらいました。
ですが、旅行会社のスピード感がしんどくなった&そもそも旅行会社に就職したかったわけではなかったことから、勤続年数を重ねるにつれ、モチベーションがついていかなくなってきました。
また、当時趣味で始めていたヨガをもっと学びたいという気持ちもあって、病気の症状も落ち着いていたことから、「今がチャンスかも」と思い、旅行会社を辞め、インドに1ヶ月行き、ヨガを教えてくれるお寺でTTC(ティーチャートレーニングコース)を受講しました。
健康な人でもインドの水とか環境が合わず体調を崩してげっそりしてしまう人が複数人でてきている中、私は、インドの環境が合ったのか体調を崩すことはありませんでした。元気ではありましたが、お寺で出してくれる料理に関しては、カレーではなく、ご飯とビーツ(赤い大根のような野菜)の煮物を出してもらっていて、インド滞在中に調子を崩さないよう気をつけていました。
ご飯とビーツの煮物は、カレー三昧の生活に疲れた他の日本人受講者にも人気で、最初は私だけが食べていたのに、いつの間にか大勢で、お腹に優しいご飯を食べていました。
インドから帰国後、公民館で友人知人相手にヨガを教えながら、職業訓練に通ったり、派遣社員として働いていたりしていました。ヨガをみんなでできる場所をつくりたい!と当時は本当に思っていて、ヨガができるカフェとかいいな〜なんてほんわか夢を見ていて、職業訓練は喫茶軽食科というコースを選択しました。
職業訓練を終えて、とあるカフェでアルバイトとして本格的に働くことになり、そこで、コーヒーの魅力や、カフェという場所の魅力や、カフェという場所で私たちができることがこんなにいっぱいあるんだ!!ということを知り、自分の天職だとすら思うくらい、楽しい日々を過ごしました。
カフェで働いている間は、自分はお客さんを喜ばすことができる、何か素敵な経験を提供できる魔法を持っているようでした。病気のことなんか忘れてしまう素晴らしい時間でした。ただ。新卒で働き出す直前に大腸全摘した手術からそろそろ10年経つというタイミングから、体調不良が顕著に現れ出し、結節性紅斑で入院したり、栄養状態が悪くて入院したり、、仕事を数ヶ月単位で休むことが増えてきました。
最終的には、腸穿孔と腹膜炎で緊急手術になったことで長期休職となり、職場には戻れない身体となりました。
休み出してから1年半後もまだ体調は不安定で、働ける状況ではありませんでした。大好きな仕事だから諦めたくなくて一年半も決断できませんでしたが、諦めて退職する意向を伝えました。
休職中の入院が長引く中、入院中にMicrosoftExcelとWordの勉強をし、資格を取得しました。家族に、才能あるんじゃない?プログラミングでも始めてみたら?と言われ、仕事も健康も失った中で言われたその言葉の影響力は絶大で、独学でプログラミングの勉強をし始めました。
いまだにプログラミングができるわけでもなんでもないのですが、コンピューターサイエンスに触れる機会となり、コンピュータへの苦手意識が減ったのは、この“人生のおやすみ期間“のおかげであることは間違いないです。
何度かのオペ後に体調が落ち着いてきてようやく仕事をはじめようと思い、派遣会社の登録をしたり、面接をしたりしましたがなかなか見つからないなと思っていたところ、県が開催しているIT人材育成・スキルアップ支援プログラムを見つけました。応募し面接を経て参加できることになりました。
当時38歳であった私は参加者の中でも年齢が上の方でした。この機会に、独学で学んでいたところをもう少し補充することができ、IT系の資格もいくつか取得しました。クラスの中でのテストでも成績の良い方でしたが、採用となると、やはり同じ条件であれば若い人の方が採用されますし、それに加えて病気もある、年齢もそこそこいっている私は、内定が全然出ずに苦戦しました。
そして、頑張っても報われないことってあるんだな〜〜〜と本当に悔しかったです。一つだけ内定がとれたのは、IT技術者としての採用ではなく、サポートデスクとしての内定でした。
直接、開発に関わることはなかったですが、ITに関する勉強をしていたから理解がしやすかった部分もあり、これまで勉強してきたことは無駄ではなかったとは思いました。
ただ、配属されたサポートデスクは、人手不足で、教育と実践が並行してすすめられ、困ってもみんな電話対応中で、誰にも聞けず、精神的に厳しい局面が多かったです。
特定の人との人間関係がうまくいかず、ストレスが過剰にたまっていき、働き始めて半年経つ頃には、病気が再燃してしまい、腹腔内膿瘍ができ休職となりました。休職満了するまで体調不良は続き、そのまま退職しました。退職後、私は再度オペをすることになりました。
この休職時の段階で「もうフルタイムの仕事は本当に無理だ、なんとかしてテレワークができる仕事を探さないと」と考え出しました。
Orihimeという分身ロボットのパイロット候補生の募集がされているのを、そのタイミングで見つけて応募をしてみました。
応募後、簡単な面接の選考を受けました。選考に時間がかかっているようで、休職中にこちらに関して特に動きはなかったのですが、オペが終わって退院して少し経った頃に、紹介したい仕事があるということで面談をしました。
その時に、今働いている会社を紹介してもらい、履歴書を提出してオンライン上で選考面接をしていただきました。
当初は、人事・労務の業務で選考が進んでいたのですが、IT系の資格をいくつか持っているところに注目していただき、ちょうどその頃人員が足りていなかった情報システム業務の方面でも選考をしていただき、ご縁があって契約社員として内定をいただきました。思っていたのとはちょっと違う形にはなりましたが、ここでようやくITに関わる仕事に携わることができました。
現在は、週3日勤務(うち2日はテレワーク)で働いています。働き出してもうすぐ2年となります。(2年弱の間に3回入院していますが、テレワークで業務を継続できており、契約を切られるという事態には陥っていません)当時勉強していたこと以上のことが必要になる毎日ですが、あの時やっていたのは、こういうことだったのか、、、という学びが、数年遅れでやってきたりして、勉強し続けるって面白いなと思う日々です。
(後編に続く)
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